
永松市(ながまつし)とは、マインクラフター「えいらくちょう」により創られている日本の空想都市です。
2021年から制作が始まり、都市面積は約2.5㎢におよびます。(2025年6月現在)
2026年8月から、招待制マインクラフト都市建築コミュニティ「CASCU(カスク)」に参加させていただいております。詳しくはこちらをご覧ください。
基本設定

永松市は、北渡地方・永松県の県庁所在地です。政令指定都市であり、人口は100万人前後です。広幅員道路網、都市高速道路、鉄道路線網が充実しています。
北渡地方及び永松県の中心都市であり、国の出先機関の他、在京企業の北渡地方支店などが集積しています。
日本海側気候に属しており、冬季はそれなりに雪が降ります。
永松市の歴史
古代
市内の台地上や内陸部には旧石器時代・縄文時代の遺跡が見つかっており、かなり古くから人が住んでいたようです。
弥生から古墳時代にかけては比較的標高の低い場所にもムラができ始め、発掘調査が進められています。
飛鳥~平安時代には朝廷による北渡進出が進んでいき、日本の国家システムの中に組み込まれていくこととなりました。大化の改新が行われたころに現在の永松県の範囲に角岐国(すみきのくに)が設置されました。
永松県の平地には条里制区画が開発され、農地化が進められました。しかし、その後は他の地域と同様、荘園が生まれ、一部の田地は荒れ果て、永松に対する朝廷の影響力は弱まっていきました。
中世
さらに、在地勢力の武装・自衛化が起こり、鎌倉幕府との関係が強化されて行きました。
幕府により守護・地頭が配置され、永松の土地・経済は武家により支配されていくこととなります。
一部の武家は守護大名、そして戦国大名へと成長していき、周辺の武家との対立・協調の中で盛衰していきました。
やがて、滋野氏という武家が角岐国全体を支配していくこととなります。
このころ、平地内でバラバラに家を構えて住んでいた一般の人々は集住するようになり、村がつくられ始めました。人々の移動も盛んになったことで宿場町が発展し、大きな神社やお寺の近くには定期市(マーケット)が設けられ、常設化されるようになりました。永松における都市集落の発展の種が発芽し始めたのです。
近世
江戸幕府成立により、幕藩体制が確立しました。これにより、角岐国の領主となっていた滋野氏が永松藩主となりました。

現在の永松市中心部は、戦国大名・滋野氏により造られた永松城下町が基となっています。
永松城下町ができる前、この地は北・東・西を河川に、南を海に囲まれた微高地であり、その北端には小山がありました。
この小山から南方を眺めると、見事な松原だったので、いつからか「長見松原(ながみまつばら)」と呼ばれるようになりました。
1600年頃、滋野氏は微高地北端の小山に城を築き、領国支配の拠点としました。
この際、「長見松原」は「長松」と縮められ、さらに「永松」と好字に改められました。
これが、永松の由来となっています。
城下町建設に際しては、小山(永松城)から南方向へ一本のメインストリート(大手道)が引かれ、そこから平行・直角に街路が設けられました。
街区は南北辺が短い矩形となっていて、街区内に空き地が生じないようになっていました。
この時設けられた街路は、現在でも永松の基本骨格として活かされています。
近現代
大政奉還、戊辰戦争、そして明治新政府の勝利により、永松藩は永松県として近代国家のシステムに組み込まれて行くこととなります。
永松城下町は永松区そして永松市へと変化し、都市発展の歩みを進めていくこととなります。
明治・大正期には鉄道や市内電車が設けられ、人や物の移動が盛んになりました。市街地の郊外部では工場が設けられ、工業化が進められました。
永松の本町地区は西洋文化発信の中心地ともなり、都市文化が発展していきました。
しかし、日本が戦時体制へ移行していくと、都市の華やかさは徐々に失われ、陰鬱な雰囲気に覆われました。
戦時末期には空襲も受け、市内は焼け野原となりました。
終戦直後から戦災復興都市計画が起草され、次世代のための新たなまちづくりが行われました。現在の主要な大通りのほとんどはこの時に設けられました。
その後の復興は目覚ましく、人口が増え、建物が増え、都市はどんどん拡がっていきました。
80年代には地下鉄が造られ、都市住民の新たな足となりました。
現在、永松の人口は微増していますが、数年後には微減していくと予想されています。来たる人口減に対応するため、新たなまちづくりの方策が模索されています。
交通網

上画像は中心駅である永松駅とその周辺です。新幹線、在来線、地下鉄線、私鉄(地下)、市電が集まる重要な交通結節点です。
鉄道開通以前は河岸場がありました。維新後、鉄道開通により堀が埋め立てられ、新たに道路が整備され、市電も開通しました。
しかし、昭和10年代から円タクや乗合自動車の普及に伴い渋滞が目立ってきました。戦後、戦災復興都市計画により道路が大幅に拡幅され、現在のような幅員になりました。
80年代には地下鉄建設が始まり、現在では市民の新たな足として活躍しています。
先述した、都市の骨格ともいえる街路形態についていえば、江戸時代の細い道、明治大正期に拡幅された中規模道路、戦災復興により構築された広幅員道路などが存在しますが、それぞれの道は互いに細かな機能の差異がありつつも、その差異を相互に補い、有機的なつながりをもって、人や車やモノを流しています。
近世城下町という形で誕生した永松は、過去からの伝統を受け継ぎながら、たしかな成長をとげてきました。
永松市のまち並み









永松市開発記録
永松の開発秘話について詳しく知りたい方はこちらからご覧ください!





永松市の刊行物
この度boothにて永松市の本を販売することとなりました。詳しくは下のバナーからご覧ください。
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