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マイクラ都市・永松市へようこそ!vol.5

こんにちは、えいらくちょうです。マイクラで「永松市」という街をつくっています。

えいらくちょう

マイクラで「永松市(ながまつし)」という空想都市を創っている人。マイクラの他、旅行や歴史博物館めぐりが趣味。

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「永松市へようこそ!」シリーズは、永松市にまつわるエピソードを通じて、マイクラでの街づくりに役立つヒントをお届けする企画です。
今回は第5回として、2023年1月からの半年間におこなった開発行為や出来事を綴っていきます。

前回の開発範囲

前回記事↓

本題に入る前に、前回の開発範囲をお見せしましょう。

2022年の前半期は永松駅周辺で様々な開発を行いました。特に官公庁建築に力を入れ、さまざまな行政機能の素地を築き上げたのでした。

駅周辺での高層建築

駅ビル建築

年が明けて1月、駅西口直結の商業施設に高層棟を作りました。この頃、私は永松駅西口エリアについて、東京・丸の内のようにさまざまな高層ビルを建築し、永松における一大ビジネス街をつくりだそうとしていました。

一方、そういった計画思想とは裏腹にこのまま進めていいのか、という迷いも生じていました。というのも、目標としていた丸ノ内が現在のように日本を代表するビジネス街となったのは、第一に江戸城郭内という歴史的な立地特性、第二に交通網の集積、第三に首都東京という特別な成立基盤、以上三つが大きな要因として挙げられます。

永松においては、最初の二つはクリアしていましたが、三つ目がネックとなっていました。丸ノ内が日本随一の地区として成立しているのは東京が首都であるからこそです。

では永松はどうか。東京並みの人口規模を有する都市であるならば、無理のない計画思想であったろうと思います。しかし、永松駅に新幹線ホームを設けたときに、永松は日本の地方都市かつ政令指定都市であるという設定を設けたはずです。そのような規模の都市に軽率に高層ビル群を設けていいのか。リアリティがないのではないか。

単なる趣味で、机上の空論であるにもかかわらず、このような悩みを抱えながら永松作成を進めていったのでした。

ちなみにこれは持論ですが、人間は何らかの主要な趣味を持ち、真剣にそれに向き合うと、実生活や人間関係で悩むことが薄れるだろうと思います。また、趣味に関連した知見や知識の収集にも自然と努めることが出来るだろうとも思います。とにかく、マイクラに限らず、人間には何か一つ打ち込めるような何かがあれば、生活は豊かなものになると信じています。

その他の高層建築

悩みを抱えつつも、駅周辺での建築作業は進んでいきました。たとえば、右下画像のビルはかなり集中して取り掛かった記憶があります。自分でも出来がいいと思えるものになりました。モデルは東京・内幸町にあるものです。後に永松都心部に移築されることとなります。

駅東市街地で様々な土建作業

雑居ビルの建築

前年からしばらく駅周囲での大規模作業に集中し過ぎていたため、口直しも兼ねて中小規模の建築物の作成に切り替えました。どこにでもあるようなビルから、ベランダから草木がはみ出ているような奇抜なビルなど、さまざまなものに挑戦していきました。

中央郵便局の建築

マイクラ 郵便局

ふと、郵便局をつくっていなかったなと思い立ちましたので、永松駅の北東に中央郵便局を作りました。モデルは大阪淀屋橋にあるものです。庇が強調されており、「日本的」な建築様式が盛り込まれています。

日本の郵便組織は、戦前の逓信省、戦後の郵政省、現代の日本郵政と、様々な形に変化しながら現代まで続いてきました。明治期から日本の情報通信を支えてきたこの組織は、日本各地に様々な建築物を設けてきました。そういった郵便組織の営繕課などが手がけた建築物は、我が国の建築文化に大きな影響を与えてきたらしいのです。

それらは「逓信建築」「郵政建築」と呼ばれ、大正期には日本におけるモダニズム建築の代表例として、また、戦後復興期には公共建築のデザインを発展させる原動力として、その先頭に立ってきました。以下の記事でも少し触れているので、ぜひご覧ください。

街路樹の設置

この時期は街路装飾にも力を入れていました。特に、歩道上への植樹を進めました。当たり前の話ですが、街路樹は都市に様々な恩恵を与えるため、良好な都市生活のためには必要不可欠です。騒音を抑制し、視覚的にも変化をもたらし、ヒートアイランド対策にもなります。

一方、維持管理がなかなか大変であるということも想像に難くありません。一本一本剪定作業が必要ですし、根上がりによる歩道の盛り上がりの問題も出てきます。街路樹などの都市を構成する諸要素は、普段何の気無しに目に入ってきますが、実はさまざまなメリット・デメリットの上に成り立っていることを改めて認識させてくれます。

南東地区で斜め街区開発

駅の南東地区では、斜めに街路網を配置して建築作業を行っていくことにも挑戦し始めました。斜めに配置したのは、なんとなく都市景観に変化をもたらしてみたかったからです。しかし、作業途中で飽きてしまったのと技術力が十分に備わっていなかったことから、しばらく放置することとなります。

駅前広場の拡張

駅東市街地の開発を一定程度進めたのち、再び駅の近くに戻り作業を行いました。駅前広場の拡張です。駅には表口と裏口が存在します。基本的に、中心市街地の方面に面している出入り口が表口です。

駅と中心市街地方面とを行き来する人や自動車の数が膨大であるため、表口の駅前広場は往々にして広い面積を有します。広くなければさまざまな交通の流れを捌くことができないからです。

ところが、永松駅の表口の駅前広場はそうではなかったのです。戦前の東京駅の周辺都市構造を参考にしたことで、堀と建物の用地で面積が狭まってしまっていたためです。

先述した、「永松駅周辺を高層オフィス街にする」という計画思想が揺らいでいた中で、果たして広場拡張のために、駅前にあるビルを削除し、高層ビルのシティスケープを崩すべきなのかという悩みも絡み始めました。

また、せっかくの駅前の水辺空間を潰してしまってもいいのか、歴史的な空間構造に多大な変化をもたらしてもいいのか、という問題も孕んでいました。

もともと、私が永松市の開発を始めたキッカケの一つに、戦前の東京の都市景観の美しさに感銘を受けたことが挙げられます。今では考えられないことではありますが、戦前の東京には江戸期からの水路網がそのまま遺っていて、「水都」というイメージを持ち合わせていました。東京駅の八重洲口には外堀があり、京橋や新橋、虎ノ門の方面にも水辺空間が存在していました。そういった都市景観にあこがれを抱いていたがゆえに、東京の都市構造(特に旧日本橋区や旧京橋区周辺)を参考に開発を進めていたのでした。

リアリティのある都市の開発・発展のために、戦後の都市開発思想に迎合すべきなのか。この時の私はロマンとリアリティの間で混迷していたのでした。

悩んだ末、駅前広場の拡張を決めました。やはり、永松が政令指定都市としてそれなりの人口を有する自治体である以上、面積が広い広場は必要であり、やむを得ないと考えたためです。

拡張にあたっては、まず駅前ビルの移築・消去から始めました。

この頃はスマホでマイクラをしていたので、ワールドエディットなどの建築補助ツールを使えませんでした。そのため、ストラクチャーブロックでビルを分割してコピー&ペーストし、別の場所に移していきました。

そして、空いた土地と水路上の空間に新たな広場を設けていきました。このとき、水路を埋め立てるということはしませんでした。渋谷川の事例のように、地下空間に残し排水の用に供することを目的にしたのでした。もちろんゲーム内の設定なので、そのようなことをわざわざ考えなくてもいいのですが。

拡張の結果、駅構造物がまるまる見える広々とした空間を整備することができました。広場内の具体的な設計・施工は時期を開けてから始めることとなります。

都市構造再編

以上のような高層地区開発の悩みや駅前広場の改変により、私の永松に対する都市設計思想が変化したのもこの時期でした。戦前東京へのロマンを追い求めるような開発思想からリアリティのあるそれへと転換したことにより、都市構造に対してもテコ入れが必要であると考えるようになったのです。

再編のきっかけ

この記事のシリーズでたびたびお伝えしてきたかもしれませんが、永松は東京の中心駅(東京駅)と元来の都心(日本橋周辺)との位置関係を参考にして開発をはじめました。

ここで、中心駅と中心市街地との位置関係について考えてみます。日本において鉄道が整備され始めたのは明治期からですが、昔の設計者がどのような場所に線路を通して駅を配置したかというと、大抵は町はずれを選びました。用地確保の容易さが大きな理由でしょう。結果、既成市街地の外縁部をなぞる、もしくは囲うように線路が設けられます。そのため、多くの都市では中心駅と中心市街地との間にそこそこの距離が生まれました。

例を上げるならば、札幌駅とすすきの、仙台駅と芭蕉の辻、新潟駅と古町、名古屋駅と栄、大阪駅と船場、広島駅と本通、博多駅と博多旧市街・天神など、枚挙に暇がありません。

ところが、そういったスタンダードな都市構造から外れるような例もあります。山形、福山、徳島などです。これらの都市では、線路が既成市街地の内部に入り込んだことで、都市を分断するような構造になっているのです。

実は、東京も山形や福山と同じ構造となっているのです。

明治維新後、東京の新橋と横浜を結ぶ鉄道が設けられたことは有名ですが、当時の新橋は既成市街地の中心地とは言い難い場所でした。中心である日本橋までは2kmも離れていました。ほかの都市と比べれば、線路はかなり市街地の内部に入り込んではいましたが、それでも線路用地は海上築堤であったため、既成市街地を避けるようにしていたことは確かです。

その後も、品川から分岐して新宿、池袋を通るような線路を設けましたが、これも既成市街地を避けるように建設されました。ここまでは、スタンダードな都市と同様の流れです。

しかし大正期に入ると、帝国にふさわしい中央駅を設けるべく、烏森(新橋)駅から東京市街線が北方へ建設されていき、線路が既成市街地の内部に進出してきました。そして、皇居(旧江戸城)と日本橋地区の間にある丸ノ内地区に東京駅が建設されました。数年後、東京・万世橋間にも高架橋が造られ、市街地内部に様々な線路と駅が設置されていくこととなります。

問題意識と再編への意欲

つまり私は、永松を開発していく上でイレギュラーな都市構造を有する都市を参考にしていたということです。これの何が問題であるかというと、参考になるような都市が他に山形、福山、徳島くらいしかないということです。

なぜ参考になる都市が少ないのがいけないのかというと、リアリティがなくなるからです。都市に独自性を持たせるために、イレギュラーな都市構造のまま進めても良かったかも知れませんが、スタンダードな都市構造に合わせた方が開発がやり易いのは明らかでした。

ということで、都市構造の再編に着手することになりました。具体的には旧城郭の位置を中心市街地の北部に設定し直しました。旧城郭の移転に伴い、官公庁街も移動させることにしました。

マイクラ 都市 地図

これまで作ってきた官公庁建築物は、ストラクチャーブロックにより移築していきました。ですが、新たな土地を設けたわけですから、街路計画もしっかり立てたうえで、移築を進めなければならないわけです。適当に町割を行ってしまうと、後で違和感が生じてしまうだろうと考えたためです。歴史的な背景を考えつつ、慎重に計算をしていき、ブロックで下書き線を描いていきました。

また、堀を単純な形状にせず、少し屈折させるなどしました。さらにこの再編により、市街地の北部にて開発を本格的に始めていきました。

さらに、旧城郭内には永松初の学校建築である「三の丸中学校」を設けました。モデルは岡山にある学校です。

移築した跡地には、江戸期以来の地割を考慮しつつ、新たに地区開発を行っていきました。

都市開発の加速

都市構造再編により、都市内の様々な箇所で街路網や街区の修正作業も同時並行的に進めることとなりました。幹線道路の配置間隔を再考し、街区を丸ごと動かして道路幅にメリハリをつけたりしました。

また、再編により街づくりの見通しを立てやすくなりました。わだかまりがなくなったことで、俄然、建築作業に力を注げるようになっていきました。大型マンションや中層オフィスビル、高層マンションなど、これまであまり作ってこなかった種類にも挑戦していきました。

まとめ

最後に、今回紹介した開発場所を地図でお見せしましょう。

2023年前半は都市構造再編という大規模アップデートを行いました。これにより、街づくりの方向性がより明確化し、建築作業にも本腰を入れていくこととなります。

次回は2023年後半の開発過程をお伝えする予定です。この時期は、ワールドデータをPCに移行しJAVA版で作業を進めることとなったため、都市開発においてさらなる発展を遂げました。次回もお楽しみに。

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